『VTuberの哲学』を読んだ感想

はじめに 

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 『VTuberの哲学』、出ましたね。おめでとうございます。フィルカルから読んできた身としては何かしらの感想を早めに残したいと思い、こうして書き始めている。

 山野氏が鬼のようにリポストしているので本書を買った人の投稿が目に入ってくるのだが、「VTuberには興味があるけど哲学には触れたことがない」という人がたくさんいる。喜ばしい。こういう人のために本書があるんじゃないだろうか。多分、「哲学は多少かじったことはあるがVTuberのことはよく分からない」という人と「哲学に触れたことはないがVTuberは好き、とても興味がある」という人がいるとしたら圧倒的に後者の方が読みやすいと感じるだろう。この本はVTuber入門ではないのでVTuberとはどんなものかを説明するものではない(定義付けをしていたとしても、それはVTuberを知らない人でも分かるようになされているわけではない)。むしろ、VTuberを通じて哲学に興味を持ってもらうという側面が強いのではないか。なので「哲学に触れたことはないがVTuberは好き、とても興味がある」という人、めちゃめちゃウェルカムです。そういう姿勢の本だと思う。

 ちなみに私はどちら寄りかというと、一応学生時代は哲学研究室にいたものの分析哲学系ではなかった(当時はフーコーとかを読んでいた)しウォルトンを読んだのもごく最近、VTuberは2020年頃に個人勢や規模の小さい企業勢をちょっとだけ見ていたが忙しくなり情報が追えなくなり2023年から改めてにじさんじを見始めたという微妙な位置にいる。ちなみにHIKAKINとゴールドシップVTuberをやっているのは山野さんの論文で知ったくらいくらい世間の事情に疎い。今はにじさんじにいる2人のVTuberを中心に見ているがこれ以上手を広げると時間と金銭の面から生活が圧迫されそうなので悲しいが他箱は原則ノータッチの方針を取っている。そういうわけで私はどちらにも馴染みがあると言えばあるしどちらもガッツリ分かっているかと言われるとそうでもない、という位置にいる。そしてこれはあくまで感想であることをご留意いただきたい。

第1章 VTuberの類型論と制度的存在者説

 あ、フィルカルで読んだやつだ!

 あとがきにもある通り、第1章はフィルカル第7巻第2号に掲載されている「「バーチャルYouTuber」とは誰を指し示すのか?」が基になっている。この章はかなり変更が多いということだが、印象としてはかなりすっきりして分かりやすくなっていた。「「バーチャルYouTuber」とは〜」では難波優輝氏の三層理論を検討することに比重が置かれていたため三層理論を理解した上で山野氏の「穏健な独立説」に至るという過程を踏まなければならなかったが、本章では非還元主義及びアイデンティティ論に比較的早く辿り着く。読みやすくなってる!

 私自身がこの章に関連して持っていた問いについて言うと、「同じVTuberを見ていてもそのVTuberをどういう存在だと捉えているか人によって違うことがある。どのように違うのか、そして大多数のリスナーはどう見ているのか?」というものである。例えば初配信にしばしば流れてくる「お前〇〇(VTuberの名前ではなくそのVTuberの配信者の名前・別名義)だろ」というコメント。典型的なVTuberの配信においては荒らしとも受け取られかねない内容だが、このコメントの内容通りにVTuberを鑑賞している人はかなり極端な配信者説の立場を取っていると言える。そしてあまり一般的・規範的な鑑賞方法ではない。また、VTuberをよく知らない人にVTuberを説明した時に返ってくる反応として多い「アニメの声優さんみたいなもの?」、これは虚構的存在者説だ。VTuberというキャラクターを配信者が「演じている」という見方は典型的なVTuberには当てはまらない(「演じるのではなく装う」って読んだ覚えがあるけれど何だったっけ)。そういうわけで両立説で、非還元主義で、となってくる。

第2章 VTuberの身体性の問題

 これは読んだことがないなと思ったら哲学の探求第50号に掲載されている論文が基になっているそう。そっちはノーチェックだったので……。バックナンバーが公開されているので無料で読めます。

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 何かに突っ込むとすると、身体的に「非連動」状態の一例としてROF-MAOの無人島が挙げられている点である。確かに例の無人島企画は声がメインだが、脚注にもある通りメンバーのモデルが実写の風景に重ねられている。もしこれが無かったとしてもROF-MAOメンバーの声として受け取ることができるのか? 答えはイエスだ。そもそも「非連動」状態の例は無人島企画を挙げるまでもなく偏在しており、例えば音声投稿がある。X旧TwitterにおいてVTuberが音声投稿をした際、それを聞いたリスナーはVTuberが自分の声を録音して投稿していると思うだろう。Vlogも同様である。音声のみで成り立つならば、無人島企画でもメンバーのモデルなしでも十分成り立つと言える。

 入れ替わり事例に対する説明も入り組んでいるが上手い。フィルカル第8巻3号で篠崎大河氏も入れ替わり事例を扱っていたため、比べてみると興味深いだろう。個人的に発見だったのは入れ替わり事例について、普段とは異なる配信者と結びつくことによって引き出されるモデルのポテンシャルを鑑賞者に示すとしている点だ。配信者とモデルの結びつきを重視すると入れ替わり事例に対してはネガティブな立場を取らざるを得ないのではないかと考えていたため、この視点は面白かった。

第3章VTuberのフィクション性とノンフィクション性

 この章も書き下ろしとのことだが、以前行われたトークイベントでこの話題が出ていたと記憶している(自分のメモに「メイクビリーブ切り抜き・ファンアート」とある)。現実世界における体験談をどう解釈するかという話だ。いわゆる切り抜き動画の中には手書き切り抜きというものがあり、VTuberが話している内容をイラストに描いてそれを使用して作られた動画である(もちろん動画になっていなくてもそういったイラストが描かれることが多々ある)。事実としては配信者が出来事を体験しているが、その出来事を経験したとVTuberが語るとイラストにはVTuberが出来事を経験している様子が描かれる。ここで起こるシームレスな経験の移行を「フィクショナルに真」として理解する。「フィクショナルに真」、ウォルトンの『フィクションとは何か』でめちゃめちゃ出てきたやつ。人はフィクションをどう鑑賞しているかという点でも興味深いテーマである。

第4章 VTuberの表象の二次元/三次元性

 これもフィルカルにあったやつ。あまりこの章について言及することはないのだが、一つ言うとするならばゲームの世界に入り込むような配信や鑑賞方法の例は多く見られるんだなということである。私が知っているのは伏見ガクの「ドライブ配信」だが、これは配信単体での面白さだけではなく本人の(実際の)運転エピソードも併せた形で鑑賞されていると思っている。

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第5章 生きた芸術としてのVTuber

 これこそ書き下ろしっぽい章。

 先日「切り抜きを見るだけで好きになったって言うの、入門書を読んで分かった気になるのと同じですよね」という悪口を言ったところなので切り抜き動画=入門書という例えはまさに納得した。配信(アーカイブ)を見ろ、元の本を読めというのは若干エイブリズムなんじゃないかと思うのであまり言わないようにはしているのだが……。

 実を言うと、これまでVTuberに対して芸術としての新しさをあまり感じられていなかった。確かに高度な技術が駆使されているのもその中で表現が模索されているのも分かるが、やり方ではなく現れとしては分かりやすい新鮮さがあまりないとも。例えばVTuberの3Dライブがよくある歌手やアイドルのライブに優っている点はあるだろうか、それが新しさを感じさせるか。

 結論から言うと、にじさんじフェス2023前夜祭でその認識は改められた。この前夜祭は音楽ライブの形式であり、4組のグループ(ソロ含む)がオリジナル曲を中心にパフォーマンスを行った。

www.youtube.com  2組目として登場した夢追翔の1曲目、「人間じゃないよな」では曲の最後に夢追が宙に吊られるような演出がある。もし実際の人間が姿を見せてパフォーマンスを行う形式のライブであれば、曲の初めからその人は宙に吊られるための装置を身につけていなければならない。「人間じゃないよな」での夢追のように大きく動くことは難しいのではないか。つまり、他のアイドルや歌手のライブではできないことができるのだ。この時、私は大きく認識を改めることになったのだ。

 少なくともVTuberが新しい形式という枠にいる間は、その魅力をアピールする際に新しさを提示することが重要となるだろう。なぜ(数多ある他のエンターテイメントや芸術ではなく)VTuberなのか、何がより魅力的なのか。リスナーとしてそれを説明したいと思うのだ。

最後に

 繰り返し書くが、この本がVTuberが好き・関心がある人が最も楽しめる本だろう。そこから関連させて哲学に興味を持ってくれたら私も嬉しいです。